06 May 09

先日テレビで、葬儀の司会のコツを教えていた。

 局のアナウンサーと、そのみちの本職が原稿の読み比べをするという趣向だ。まず女性アナウンサーが、抑揚をつけて原稿を読み上げた。いかにも弔いの気持ちを込めましたというふう。原稿を膝元に下ろすと、ギャラリーから拍手が起きた。噛んだり、よどむこともなく、できばえは満点。

 番組の進行役が「どうですか」と尋ねると、「うまいですよね」とプロ。「でも、上手じゃないほうがいいんですよね」。

 いま以上にうまくやれるの。だったら、お手本を見せてもらおうじゃないかと、本職の彼女に視線が集まる。

 姿勢が違っていた。アナウンサーは、カメラに顔が映るよう、しっかり正面を向いていたのに対して、うつむきかげん、前髪が目を塞いで、ちょっと「貞子」ふう。ゆっくりと言葉の間をとる。

 とつとつとした口調に、先ほどとは打ってかわって、居合わせた全員が聴き入ってしまっている。ワタシもひきこまれた。

 文章でいうと「、」のアキが効果的だった。

「感情を込めない」のがコツだと本職の女性はいう。説明もまた淡々としてフラット。それでも無表情な響きには、アナウンサーの巧さには「ない」ものが、あった。

 まるで感情のこもらない「、」の隙間だからこそ、聴き手はイメージを膨らませるノリシロがもうけられていた。

 聴き手の想像にあずけるためにも、ナレーションに感情を込めない。これは、長年ひとり芝居を続けている、イッセー尾形さんの演技にも通じる。

 イッセーさんは、キャラクターを演じる際には、身体の動きに集中し、気持ちを作ろうとかは考えたことがないと話していた。

その『涙の理由』は「優しい私」の指さし確認では? ~感情のデフレ化はどこかヤバイ:日経ビジネスオンライン (via yuco) (via jacony) (via kml)